森亮太さんの想いでとその作品

土方明司(平塚市美術館館長代理)

 森亮太さんとの最初の出会いは、今から36年前のことになる。場所は井上房一郎氏の山荘だった。藤沢から鎌倉への引っ越しの方違えのため、父とともに高崎市郊外の井上さんの山荘にお邪魔した。その折、井上さんが父に紹介するため、亮太さんを連れてきたのである。周知のごとく、井上さんは群馬を代表する実業家であると共に、群馬交響楽団や群馬県立近代美術館の設立に深く関わり、さらには高崎哲学堂構想を立ち上げるなど、芸術面での強力な支援者であった。その井上さんが、亮太さんの才能を認め後押ししていた。この年、亮太さんは第一回群馬青年美術展で優秀賞を受賞している。当時、僕は16歳で亮太さんは24歳。美術に対する真摯な態度、誠実でひたむきな亮太さんの人柄に強く惹かれた。何よりも、心を開くことが出来る兄のような存在に出会った喜びに胸が躍った。そんな僕を、金沢美術工芸大学の卒業を控えた亮太さんは、金沢を離れる前にと下宿に呼んでくれた。
金沢の下宿での想いでは今でも鮮明に覚えている。木造の古いアパートの2階角部屋。自作の小さい作品。シモーネ・マルティーニの端正な婦人像模写。コーヒーとタバコの香り。そして低く流れるジャズ。思春期の僕にとって、亮太さんとこの部屋は心ときめく憧れの存在であった。卒業間際ということもあって、毎晩大勢の友人たちが訪ねてくる。深夜まで続く炬燵を囲んでの酒の席に背伸びして入れてもらった。話題となる美術の話しは分からなかったが、大人の仲間に入れてもらったようでやたら嬉しかった。はにかんだような、でもひたむきな亮太さんの横顔に一瞬走る、寂しげな表情が忘れられない。亮太さんが幼い時に母親と別れ、父方の祖母に育てられた話しを聞いたせいだろうか。
 上京し、七彩工芸に勤めてからもよく下宿を訪ねた。また、鎌倉にも何度か遊びにきてくれた。二人で良く飲んだ。ウイスキーが好きな亮太さんは酔うとよく、サントリーオールドのCMソング「人類みな兄弟」を口ずさんでいた。開高健の名コピーで流行ったこのスキャットは亮太さんにぴったりだった。僕が大学に入り、亮太さんがとみ子さんと結婚し、創太君が生まれ、茉実子さんが生まれ、と、付き合いの年月を重ね、その間、亮太さんはこつこつと作品を作り続けた。上京後の最初の個展は銀座の史染沙ぎゃらりぃだった。搬入を手伝った僕に、作品を持って、撫でて、身体で感じて、と何度も言ってくれた。彫刻は触れてみないと分からないよ、と。翌年はスペース・ニキと個展が続いた。絵画と違い、また木彫や塑像よりも制作時間を必要とする石彫作品を、仕事の合間によくあれだけ作れたと今更ながら思う。
 最初の個展の頃から亮太さんの作品は既に独立した作家としての個性を持ち、完成度の高いものであった。一言でいえば自律した作品であった。一つの世界を持ち、完結していた。抽象的なフォルムであるが、温かみがある。自然でのびやかなその作品は、また、内省的印象を見る者に与えた。自己主張の強い現代美術作品の中にあって、かえって存在感を際立たせていた。そんな亮太さんは金沢美大時代、指導教授の高橋清氏に強い影響を受けたという。高橋氏は1958年メキシコに渡り、69年に帰国するまでの11年間、彼の地のオルメカ文明、マヤ文明美術の研究を通じその感化の下で作品を制作してきた。その独自性はメキシコでも注目され、メキシコ国立美術館で個展を開催し、ヴェラクルス大学では彫刻部の主任教授となっている。帰国後は日本の抽象彫刻を牽引するひとりとして活躍し、96年に没している。作品は、野太い生命讃歌に裏打ちされており、原初的な生命力を内に秘めたものだ。高橋氏に学んだ学生は、その影響から脱するのに苦労する者が多かったらしい。それだけ作品のみならず、人間的にも魅力があったということだろう。ただ、上京後の亮太さんの作品をみる限り、高橋作品の直接的な影響は感じられない。有機的なフォルムをベースにしながら、幾何学的なフォルムを自在に取り込むところなど、共通点は指摘できるが、何よりもそれぞれの作品が指向する世界が異なっている。高橋氏があくまで生の肯定を起点としたモニュメンタルな世界を目指すのに対し、亮太さんの作品はフォルムが内包する自律的なリズムを追い求めている。この亮太さん独自の作品の世界について、以前こう書いた。

 「石彫というもっとも禁欲的な手法にこだわり、素材との丹念な対話から生まれたフォルムはてらいのない美しさに満ちている。内面のイメージを核とし、自らの目と手によって探り出した石理(石の目)に逆らうことなくゆっくりと慎重に鑿をふるう。このとき森さんは思索の人であり造形の詩人であっただろう。量塊を誇示することなく、あくまで自然なたたずまいをみせるその作品から、ものに対するあたたかな、そして深い愛情が伝わる。
幾何学的な形態と有機的な形態を交錯させながら、それぞれを対立させることなく融合させ、必然的で普遍的な形態に昇華させる。そこには作為ある操作は介在せず、自然の摂理に敏感に反応する豊かな感性が見て取れる。種子が発芽し果実になるように森さんの作品はどれも内面の促しによって創造される」。

 この文章は、「植物から果実が、母親から子どもが生まれてくるように、芸術は人間から生まれてくる果実なのだ」と語ったハンス・アルプのことばを念頭に置きながら書いたものだ。この亮太さんの作品に対する印象はいまでも変わらない。ただ一つ、今回この原稿を書きながら改めて考えたことがある。それは、亮太さんは何故、石という素材にこだわり続けたのか、ということである。
 亮太さんが初めて石彫作品を手がけたのは高校生のときである。美術専修コースに学んだ亮太さんは、同校の体育館取り壊しの際に掘り出された礎石をもらい受け、初めて石彫作品に挑んだ。先日、その作品写真を見せてもらったのだが、とても高校生が作ったものとは思えないほど完成度の高いものであった。ヨコ2メートル、タテ80センチの白御影石を三つのパートに分け、人の足を横にしたようなフォルムを構成している。おそらく亮太さんは、掘り出された巨大な礎石と向き合い、その塊の中にこの作品のフォルムを見出したのだろう。つまり、既に作りたいイメージなりフォルムがあったわけではなく、石との交信によってその内部より新たなフォルムを掬い取ったといえば良いだろうか。石という動し難く完結した存在感を放つ素材を相手に、青年であった亮太さんはどのような内面的な交信をしたのだろうか。この作品が持つ、不思議なおおらかさと静けさ、そしてあくまでも自然な佇まいをみると、既に亮太さんの石彫家としての天稟を感じる。「石は永遠の生命力を地にあって象徴する。いわば自然が人間に与えた大地の骨であり命である」とは、高橋清氏のことばである。亮太さんは師である高橋氏から、本来的に備わっていた石への強い思いを表現へと昇華させる術を学んだのだろう。この強い思いとは、例えば宮沢賢治がみせた鉱物への執着ともいえる偏愛の感覚に通じるものかもしれない。前にも書いたが、亮太さんのイメージは「銀河鉄道の夜」の主人公に重なる。
 今でも、制作の合間にふと遠くを見やる亮太さんの横顔が目に浮かぶ。他人の何倍もかけて仕上げにこだわり、丹念に石の表面を磨いていた。シンメトリーを微妙にかわす繊細なライン。その結果うまれる触覚的な感覚と視覚的なリアリティーが交差し融合するひとつの宇宙。
 どう言葉を連ねても亮太さんとその作品への想いは尽きない。