森亮太の碑、あるいはヴィルトゥオーゾということ

谷内克聡(群馬県立館林美術館学芸員)

扨夜は、彼女を犠牲としまた配偶となし、
その星は、燭火手に持ち、見てました、
白い幽霊とも見える仕事着が干されてあつた中庭に
彼女が下り立ち、黒い妖怪の屋根々々を取払ふのを。

アルチュール・ランボー 
『最初の聖体拝受』(中原中也訳)より

 森亮太の作品に《Yのかたち》(1988)という黒御影石で造られた少し長めのプロポーションを持つ彫刻があって、Yという形象が、Y染色体を想起させ、また同年に作成された《COUPLE》という一対の作品の一方にその形象が近いので、そのどちらが男性でどちらが女性か判然とはしないものの、《COUPLE》の一方の部分、すなわち《Yのかたち》に形象が近い方に、何となく男性をイメージしたものとの印象を持つのは、あながち間違った連想でもないだろう。森亮太の作品は、時にユーモラスであり、《Yのかたち》も男性的ではあるものの、その曲線部分が、強い女性と伴にいる腰の砕けた男性といった感じで、ちょっと微笑んでしまうような形態を、そこに見て取ってしまってはいたが、はたしてこれは、そうした作品なのであろうか。《Yのかたち》は、作品自体、そう大きくはないので、何となくオブジェのようなかわいらしさを持つが、しかし、よくよく見ると、モノリスというか、スタンリー・キューブリックの記念碑的SF映画『2001年宇宙の旅』(1968)で登場した象徴的石盤のような感じでもあり、黒御影石を手で磨いたそれは、彫刻というより石碑のようだ。
 ここで森亮太の作品を初期のころから見てみると、高校卒業制作である、白御影石の作品は、後の作風を決定づける、荒削りながらシャープに切断された断面を持ち、森亮太という彫刻家が、既にこの時期に出来上がっていることを明示させ、その後、大学に入り、おそらく師である高橋清の影響下、1970年代は、しかしその影から抜け出そうともがいていたような気配はなく、むしろ飄々と作品を制作し続け、独自のユーモアと、就職した七彩工芸における広告宣伝用オブジェの制作によって、搦手からその影響を脱してゆき、80年代に入ると、《軌跡》(1981)から《座標》(1988)へといたる形態の連続性、また《通り過ぎたかたち》(1982)や《二つの突起》(1982)にみるユーモラスな形態の追求、そして《風の扉》(1987)、《浜風》(1988)、89年から始まる《東風》の連作、《南風》(1991)、《西風》(1991)といった風シリーズにおいて、まさに森亮太は、森亮太の彫刻を完成させていく。
 《Yのかたち》は《風の扉》の翌年に制作されている。先に《Yのかたち》は、石碑のようだ、と書いた。ここで中国の石碑について書かれたエッセイのような不思議な書物について触れてみたい。この書物は、今から丁度100年前の1912年12月に北京で、あるフランス人の海軍軍医が、高麗紙に印刷した限定81部私家版で上梓した。書物の題名を『碑』という。作者はヴィクトル・セガレン。セガレンについては、フランス以外では日本でも近年、全集が創刊される運びとなっている。セガレンの著作に関して、『ゴーガン礼賛』など一連のゴーガン論、『〈エグゾティスム〉に関する試論』といった昨今のコロニアリスム論の先駆け的作品、そして、同時代のドビュッシーとの関連で『響きの世界の中で』という幻想的作品に興味があったが、なかでも『碑』という作品に特に魅かれていた。『碑』は先にも述べたようにかなり特殊な書籍である。ポール・クローデルへの献辞に始まる、この書物は、「〈碑〉というのは歴史的遺物だが、つまるところ一枚の石板である」と書き出され、そして、「銘句であると同時に、削り出された石、というのが碑のすべて、身体と魂を併せたその存在の総体である」と記している。このセガレンの碑についての言葉は、森亮太の作品にも当てはまるのではなかろうか。まさに森亮太の彫刻は「つまるところ一枚の石板」であり、「身体と魂を併せたその存在の総体」こそが、森亮太の作品の、あるいは彼が追い求めた総てなのではなかろうか。続いてセガレンは、碑の向きについて述べ、それは、東西南北、路傍、そして中と分け、本の構成もそのようになっている。これは、森亮太の《風の扉》、《東風》や《西風》といった風のシリーズに通底しないか。セガレンは碑の向きの意味するところを、「南は布告」、「北は友情」、「東は愛」、「西は戦士と英雄に」と解釈する。はたして森亮太は自身の作品に付けた題名にいかなる意味を持たせようとしていたのだろうか。そしてセガレンのいう、碑における「身体と魂を併せたその存在の総体」を、森亮太はどのように追い求めたのだろう。
 ここで森亮太の彫刻の一つの特色をあげてみたい。それは、その彫刻の表面に現れた、まさに手技でしかなし得ない、職人的ともいえる滑らかさで仕上げられたシャープな表層である。森亮太の彫刻に触れる時、あるいはその表面を凝視する時、18世紀に建立された、ナポリのサン・セヴェーロ礼拝堂にある、一連の彫刻群、特にジュゼッペ・サンマルティーノの《ヴェールに覆われたキリスト》(1753)やヴェネツィアのブチントーロ職人アントニオ・コッラディーニの《謙遜》(1751)を思い浮かべる。ドミニック・フェルナンデスは、カストラートを主人公にした小説『ポルポリーノ』の中で、サン・セヴェーロ礼拝堂創設者である「ドン・ライモンドは、大理石をバターのように柔らかくする方法を発明した」と書いているが、馬鹿げた話でそんな方法があるわけがなく、「大理石をバターのように柔らかく」したのは、サン・セヴェッロ公ライモンド・ディ・サングロではなく、コッラディーニをはじめとした、その時代の職人にも似た彫刻家達の巧(virtu)であったはずだ。そして、こうした神業的な技術をあたえられたものを「ヴィルトゥオーゾ」といった。ヴィルトゥオーゾという言葉は、演奏の技巧者とか目利きといった意味合いでよく使われるけれど、才能としての徳を持ち得たものをさす言葉である。森亮太の彫刻を見るとき、まさに「ヴィルトゥオーゾ」という言葉を思い浮かべる。
 1993年6月、群馬県赤城にアトリエが完成し、そして8月1日、念願のアトリエでの制作を始めようと、車で赤城に向かう途中、森亮太は逝った。41歳だった。
 没後20年がたとうとしている今、展覧会を開催するにあたり、あらためて森亮太の彫刻に接しながら、セガレンが「東向きの碑」の章で記した、楽石と墨痕された「音楽の石」の中の次の一節を思い起こす。
「わたしに触れてみよ。あの時の声のすべてが、私の音楽の石の中に今も生きているから。」

文中テキストは以下の文献から引用した。
ヴィクトル・セガレン『碑』(有田忠郎訳、セガレン著作集〈第6巻〉『碑、頌、チベット』所収、水声社、2003年)/ドミニック・フェルナンデス『ポルポリーノ』(三輪秀彦訳、早川書房、1981年)
Victor Segalen “STÈLES” 1912/Dominique Fernandez “Porporino ou les Mystères de Naples” 1974